新潟県三条市の名誉市民

昨年9月に、新潟県三条市の名誉市民となったのが、あの世界のジャイアント馬場さんです。三条と言えば、金物の町で有名ですね。今も、三条市には、ジャイアント馬場さんの生家があるそうです。

 

ジャイアント馬場さんの実家は青果商で、少年時代は、毎日片道10キロ以上の市場まで、リヤカーを自転車に付けて引っ張ったそうです。雪道はソリで引いたとのこと。これを小学校5年から高校を中退して巨人軍に入団するまでの7年間、毎日登校前に行っていたそうです。馬場さんは昭和13年生まれですが、当時の子どもはみんな、親の手伝いをしてから登校したそうです。

 

ジャイアント馬場さんは、巨人軍に入団し、プロ野球の投手となったものの、ケガが原因で、プロ野球選手の道を断念します。そして、力道山にスカウトされ、プロレス界に進みます。しかし、あれだけ少年時代から鍛えた体でも、プロレスの「ヒンズースクワット」3000回では、倒れては水をかけられ、また続けるという過酷な練習に度肝を抜かれます。「プロレスの練習は、ぶっ倒れてから始まるものだと知った」と自伝の中で語っています。

 

同期入門のアントニオ猪木、1つ先輩の大木金太郎、ジャイアント馬場の3人が並んで、ヒンズースクワットをやった時には、3人の汗で水たまりができたという、プロレス界では有名な伝説もあります。

 

力道山は、ジャイアント馬場へは、特別待遇で育成します。付き人の経験もしないまま破格の給料をもらい、海外修業の機会もすぐに与えられ、まさに、引かれたレールの上を歩むといったイメージです。それに対し、アントニオ猪木は、力道山の付き人をし、容赦なくこき使われます。二人の待遇は、月とスッポンでした。

 

やがて、ジャイアント馬場は全日本プロレスを、アントニオ猪木は新日本プロレスを立ち上げます。新しいことに挑戦し、常に、プロレスを活性化してきた猪木とは正反対で、同じことをずっとやり続ける馬場のスタイルに、当時少年だった私は、批判的でした。

 

作家の村松ともみさんや当時は、過激な若きアナウンサーだった古舘一郎さんとともに、多くの新日本プロレス派だった私ですが、大人になって、ようやくジャイアント馬場さんの懐の深さを理解できるようになりました。

 

どっちか良いとか悪いじゃなくて、それぞれのやり方があるということに気づいたのが、恥ずかしながら、大人になってからです。

 

今、保育園の子どもたちに、また子どもたちを取り囲む保護者や多くの大人へ、「違いを理解しよう」と偉そうに言っていますが、プロレス界の馬場と猪木の生きかたも、プロ野球界の王と長嶋の生きかたも、それぞれ違うだけで、どちらがいいという答えはないのです。

 

ジャイアント馬場さんが亡くなって、もう18年が過ぎました。今でも天国で、お気に入りの椅子に座って、ハマキを口にしていることでしょう。