平成の思い出②

昨日が、元会社の先輩であり、大きな仕事のパートナーとして一緒にチームを組ませてもらった方の命日です。59歳という若さで亡くなり、早いもので三回忌です。

 

今日は、一日遅れの墓参りに行ってきました。それには理由があって、じっくりと、お墓の前で、酒を飲みながら話がしたかったからです。お正月でもないのに、昼から日本酒を飲みながら、今年1年の出来事を報告したり、昔話をしたり・・・30分くらいですが、二人で飲んだつもりになりました。こんな墓参りも、懐の大きい方でしたので、許してくれるのです。

 

さて、今日の平成の思い出は、スポーツです。まずは、平成5年にJリーグが開幕しましたね。「オーレ♪オレオレオレ~♬」のファンファーレが、日本中に響きました。そして、この年、ドーハの悲劇で、ワールドカップ出場の夢が消えます。当時のロスタイムにイラクに得点を許したシーンは、今でも鮮明に覚えています。

 

そして、平成7年に阪神淡路大震災が起こり、日本中が悲しみの中にあった時に、野茂英雄投手が、大リーグへ挑戦したのです。今でこそ、日本人大リーガーはたくさんいますが、野茂選手が、その道を作った最大の功労者であることは、誰もが認めるところです。

 

しかし、野茂選手のロサンジェルスドジャースの契約は、鳴物入りの華やかな契約ではなく、マイナー契約で、年俸はわずか980万円です。そして、5月2日に初登板・・・私は、正座をして応援をしていました。この年、野茂選手は13勝をあげ、リーグ最多三振、オールスターゲームにも出場し、新人王を獲得しました。

 

ストレートとフォークだけで相手打者をなぎ倒すトルネード投法に「ノモマニア」という言葉が流行しました。日本人の誇りでしたね。

 

日本の野球が、イチロー選手の打者としての大活躍もあり、世界で通用することが証明され、平成18年の第1回ワールドベースボールクラシックでは、野球が世界一となります。決勝のキューバ戦・・・第2回大会決勝の韓国戦・・・ともに、凄い試合でした。

 

オリンピックに出場する選手の意識も変わってきたような気がします。平成8年のアトランタオリンピックで、有森裕子選手が銅メダルを獲得して、「自分で自分をほめたい」と発言しました。また、平成12年のシドニーオリンピックの女子マラソンで高橋尚子選手が金メダルを取った時は「すごく楽しい、42キロでした」と笑顔で答えました。

 

かつては、日の丸を背負い、その重圧に耐える日本人アスリートの姿が多くありましたが、アスリートの考え方も、世界レベルになってきたことを感じました。

 

北島康介選手の「チョーキモチいい!」というコメントが、プラスに受け止められるのも、日本人が、「国のために・・・」ではなく、国籍を問わず、頑張っているアスリートを応援するように変わっていったのかもしれませんね。

 

日本人が、スポーツにおいて、世界との差を感じなくなったのも、この平成の時代で確立されたのかもしれませんね。

 

あなたの平成でのポーツの思い出は・・・どんなシーンですか。