初代タイガーマスク 佐山聡

屋上ファームで大きな「冬瓜(とうがん)」を2つ収穫しました。どうやら、スイカの苗が、とうがんの苗の接ぎ木だったようで、それがいつの間にか、スイカ畑で大きく実をつけたのです。子どもたちの顔よりもはるかに大きいので、しばらくは、保育園の入口に飾っておきます。

 

さて、昨夜のNHK「アナザーストーリー」を食い入るように見ていた私です。プロレス界には、力道山から現在まで様々な分岐点や節目がありましたが、1981年4月23日のタイガーマスクデビューは、当時のプロレス界を大きく変えました。

 

私が高校生の時でしたが、ダイナマイトキッド選手との試合は、今でも鮮明に覚えています。

 

タイガーマスクの仕掛人は、当時新日本プロレス社長のアントニオ猪木さんの右腕だった営業部長、「過激な仕掛人」と言われた、新間寿(しんまひさし)さんです。彼も、アントニオ猪木も、タイガーマスクにしたい選手は、「こいつしかいない」と一致しました。そう、佐山聡(さやまさとる)です。

 

彼は、アントニオ猪木に憧れ、新日本プロレスに入団するのですが、身長が低く(173センチと公表されていますが、実際は170センチあるかないか)、プロレスラーとしては小柄過ぎるといわれたところを新間氏の推薦で入門できたのです。

 

佐山聡の運動神経と格闘技センスは抜群で、またたくまに頭角を現します。すぐにメキシコ遠征が決まり、そこでも注目をあびるようになりました。メキシコのタイトルマッチに挑戦するタイミングで、猪木と新間に「タイガーマスクになれ!」と言われるのです。

 

タイガーマスクは、その実力だけでなく、アニメの世界と同じような華やかな動きに、プロレス界の枠を越えて、社会現象にもなりました。ふだん、プロレスを取り扱わない一般紙や雑誌も、タイガーマスクに魅せられるのです。

 

力道山から続いたプロレスの当時の客層は、男性が中心でした。ジャイアント馬場・アントニオ猪木とプロレスブームは続きますが、タイガーマスクの登場で、子どもたちや女性が、プロレスの新しい客層になっていくのです。

 

佐山聡は、タイガーマスクのような試合ができる実力があったのですが、彼がやりたかったのは、もっと、普通の格闘技だったのです。アクロバティックな動きは、彼にとっては、葛藤でしかなかったのです。

 

彼の一番のライバルだった、イギリスのレスラー「ダイナマイトキッド」が、2018年に亡くなりました。まだ61歳でした。4年前に、佐山がキッドに送ったビデオメッセージを聞きながら、キッドは涙を流していました。「君が一番のライバルだった・・・病気に負けないで頑張れ!」の言葉に、プロレスファン全員が心を打たれたことでしょう。

 

その佐山も、現在原因不明の病気と闘っています。今は、満足に歩けない状況で、パーキンソン病ともいわれています。彼は、当時タイガーマスクであることが、本当の自分ではないようで、イヤでイヤでたまらなかったのです。わずか、2年半で、タイガーマスクを脱ぎ捨てて、新日本プロレスを去ったのです。

 

しかし、彼こそ、プロレスラーとして華があった選手はいません。62歳になった佐山は「今の自分は、タイガーマスクが沁み込んでいる。タイガーマスクなしでは、自分の人生を語れない」と言います。

 

私の世代は、初代タイガーマスク佐山聡に、かけがいのない夢をもらいました。夢中になって彼を追いかけた記憶が蘇ります。そして、病気に負けない強い意志を昨日の番組で見せてくれました。そんな、佐山聡に勇気をもらった一日でした。