「悪しき平等性」の呪縛

今朝の冷え込みで、屋上は久々に氷が張りました。どろんこ広場には、霜柱もできています。子どもたちは、バケツに、氷の破片と霜柱を集めます。今シーズン、あと何回氷遊びができるか・・・子どもたちが「ワクワクドキドキする」大切な時間です。

 

さて、本日、オリンピック・パラリンピックの新会長に、橋本聖子さんが選出されました。今回の騒動で、あらためて「多様性への容認」について、特に私たち日本人は、深く考える機会を得ました。

 

しかし、多様性を認めることは、「みな平等に!」という事ではありません。世の中には、「平等という名の不平等」だったり「悪しき平等性」が、日常生活の中に見られます。

 

学校教育では、「みんな同じにできる」という考えで、クラス全員が、同じにできるように指導し、同じになれば良しとする教育が行われてきました。一斉授業に求められる、最適な「答え」とも言えます。

 

ある幼稚園での事・・・「給食は、全員完食を目指すのではなく、一人一人の違いに応じて、『量を減らす』『頑張って食べているなら、残すのもやむなし』の方針転換をしていく」とすると、ある保育者から「それをやったら、他の子は食べているのに不平等になりませんか?」という質問があったそうです。つまり、「食べなくていいなら自分も食べない」につながるという心配です。

 

まぁ~現実的には、頑張って完食した園児には、保育者は最大限褒めることで、園児は完食することや好き嫌いがない自分に対して喜びを感じるものです。また、他の園児が「ずるいよ~」なんて言ってくるようなら、「どうしても食べられないつらさがある」ことを保育者は説明しながら、園児一人一人の違いを伝えれば、理解できるはずです。

 

「みんな同じにできる」を進めていくことは、まさに「悪しき平等性」の呪縛から解放されていないことなのです。

 

私たちは、「多様性への対応を進めなければいけない」と、言葉では理解しています。しかし、具体的行動に置き換えると、どうするのか・・・日常にある様々なシーンの中で、もっと深く考えないといけませんね。